中将神は偉大なり!!!

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1 実在とはなんだろう

「物が実在する」ということはどういうことだろう?
とりあえず、雑に検索を行うと

1 実際に存在すること。現実にあるもの。「実在の人物」「この世に実在しない生物」

2 哲学で、

㋐意識から独立に客観的に存在するもの。

㋑生滅変転する現象の背後にあるとされる常住不変の実体。本体。

( 実在(ジツザイ)とは - コトバンク より.R01.08.15参照)

1は熟語をバラバラにしただけなので、とりあえず2㋐について深めていこう。 最初に「客観的に存在する」ことをうまく説明することを考えてみる。正確な語義を得る為に、「客観的」で検索すると...

1 主観または主体を離れて独立に存在するさま。

2 特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま。「客観的な意見」「客観的に描写する」

( 客観的(キャッカンテキ)とは - コトバンク より.R01.08.15参照)

2の意味はわかりやすい様に思う。一つ一つの観点視点から物事に触れるのではなく、普遍的に適当であること。確かに、これは意味が良く通る様に思える。ある物事について様々な人が意見を述べていく。その総体として誰の意見をも贔屓しないもの。 しかし、ある物事がその評価を明確に表すことが出来るときはどうなるであろうか?

例えば、地面に大きな立方体が置かれているとして、これを中心に様々な方向に居る人に立方体が平面的にどの様に観えるか聞いていくことを考える。 ある面の中心から伸びる垂線上の人は立方体を正方形と評するだろうし、その人から平行に少しずれた人は長方形と言うだろう。斜め上からその立方体を見下ろす人には、また別の多角形に見えるかもしれない。
この場合、2の意味における「客観的な」評価を与えることはできない。なぜならば、人それぞれの観え方は相反することもあるので、「客観的なもの」を定めると自然とその「客観的なもの」に近いものを贔屓したことになり遠いものを無視したことになるから。
この場合は1の意味で「客観的なもの」を考えれば良い。それは立方体であろう。

上では空間的な例を挙げたが、時間的な例も挙げることができる。 洗面器の栓を入れて水を溜める。蛇口を開いて間もない頃に洗面器の様子を観た人は、水かさは僅かと評するだろう。時間が経ってから洗面器を観に来た人は、オーバーフローホールに流れてゆく水を確認するだろう。 このときの「客観的なもの」は「洗面器に溜まる水」である。

ここで挙げた様な自己同一性を持つ観察対象の時間と空間に関する実在を物理的実在と呼ぶ。
(突然「自己同一性」という言葉が出てきたが、立方体は立方体で他のものでは無いし、洗面器に水を溜める場合も洗面器は変形しないしわざわざ他の洗面器を観に行くものでもない。前提ともいえる部分であったために特に触れなかった。)

物理的実在に対しては、例で挙げた様に「客観的なもの」を見出すことができる。そして、それらは主観または主体から離れて独立である。この独立性をもっと綺麗に言い表せないだろうか?

ここでポイントとなるのが「主観または主体から離れて独立である」こと。これは主観を持つ「観測者」を前提としている。そして、物理的実在に対しては、観測者たちの観測結果の間に何らかの系統性が見出せる様に思える。先程の立方体の例であれば、幾何学的な法則がそれであるし、洗面器に水を溜める例では蛇口から出る水量の時間変化率と洗面器の形状がわかれば明確な系統性があるだろう。時空間を併せて考えるならば、前者は時間的な観測点の変更に対して変化しないという系統性があり、後者は空間的な観測点の変更に対して変化しないという系統性がある。
(水量が多くなると、観察する角度によって水深は変わって見える。屈折のために。そういう意味で、先程の例では空間的に不変ではない。しかし、光学的な系統性を持つので、上の議論に変わりはない。)

この様な時空間内の観測点を変えたときに、それに対応して観測結果が系統的に変化することを相対性原理という。この相対性原理で「主観または主体から離れて独立である」ことを規定するのが自然ではないだろうか。すなわち、相対性原理に従うことを「主観または主体から離れて独立である」と定める。

ここまで考えると、見出される「系統性」が「実在」の語義2㋑における「背後にあるとされる常在不変の実体」であることがよくわかる。
そこで、2 ㋑に挙げた例を照らし合わせる。空間的なものにおける「生滅変転する現象」とは「背後にあるとされる常住不変の実体」に当たる系統性を「平面的に観察すること」となる。この場合の「背後にあるとされる常住不変の実体」は同様に系統性そのものであり、「生滅変転する現象」は「洗面器に溜まる水かさが増すこと」と考えられる。

以上を踏まえて、物理的実在については「実在」の語義2に関して次の様に言い換えることができる:

㋐ 時空間内の観測点の変更に対する観測結果に系統性を見出すことのできる(=相対性原理に従う)もの

㋑ ㋐の系統性の様な生滅変転する現象の背後にある常在不在の実体

あれこれ考えて来たが、この言い換えは当たり前のものではないだろうか。例えば、物干し竿の様な細くて長い棒を地面と平行に置くとしよう。棒が最も長く見えるところから、棒の中心までの距離を変えずに角度θだけ動く。すると、(どこを基準に角度を測るかにも依るが)棒の長さは本来のcosθ倍に見える。もしこの系統性が無られないとき、つまり長さが変わらない様に見えるとき、何かしらのカラクリを意識するか空目を疑うだろう。
ふとした瞬間瞬間で実在を考えるとき、我々は無意識的に、相対性原理を受け入れているのである。

次回は「観る」ことを主眼において、再考してみようと思う。また、以下を参考にしている:

「重点解説 ベクトル・テンソル」 ~ 物理的実在 を求めて ~ 森川雅博(お茶の水女子大学教授) 著 SGCライブラリ78 臨時別冊 数理工学社